郷土愛ってなんなん?
おはようございます。黒川彩芽です。
前の記事で私は玉野が大好きです!と書きました。おそらく私は郷土愛にあふれた人間なのでしょう()
そんな郷土愛溢るる私ですが、今現在玉野市に住んでいるかと聞かれるとそうではありません。大学の近くにアパートを借りて暮らしています。
玉野のことは大好きなのでいつか帰ろうと思っていますが、それは近い未来ではなく20年以上先の話になりそうだと感じています。
でもいつかは帰りたい場所。それが私にとってのふるさとです。
今日は『郷土愛ってどこから生まれるの?』を考えてみたいと思います。
私は、ほとんどすべての人に生まれた町、育った町、故郷と呼びたい場所があるのかなと思っています。ただ人それぞれにその場所の存在は自分の中で大きい人、小さい人、様々だと思います。
自分の故郷に対する愛着というのはどこから生まれてくるのでしょうか。
私は機会があって郷土愛の源泉をたどるためにちょっとだけ論文を読んだことがあります。私は、何本か読んだその論文の中で郷土愛は3つの記憶から生まれるのではないかという仮説を立てました。その3つとは
- ヒト
- 場所
- 知識(歴史や地誌など)
さて、郷土愛が強いぞ、弱いぞと思っているあなたに質問です。
自分が思う郷土愛と、自分が持つこの三つどれかに関する記憶の量や質は比例しているでしょうか?
私は比較的郷土愛の強い人間だと自分をとらえています。
そして私の記憶の中には地域に住む友達やおじいちゃん、おばあちゃんたちとの記憶。何もない中で工夫して遊んだ神社や公園、特別感のあった駄菓子屋の記憶。そして小学校の時習った地域の名産品や歴史といった記憶がたくさんあることに気づきました。
私の周りには同じような環境で育った友達が20人程度います。では彼らは私と同様に郷土への愛着を持っているのでしょうか?
皆さんの予想通り、私と友達の間には個人差があります。
ではなぜ個人差は生まれるのでしょうか?
私は高校進学のタイミングで岡山市に出ました。玉野市以外の友達の方が多い環境に身を置きます。そこで私は玉野市出身の彩芽ちゃんでした。今までは全員玉野市出身の○○だったのでえらい環境の変化です。だから玉野市の話をする機会も玉野市を市外から客観視する機会もできました。
そこで初めてほかの市町村と自分の郷土を比べたのではないでしょうか。
自分が持っているものを他者やほかのものと比べて、はじめてその価値に気づくというのはよくある話です。郷土愛でもそれが言えるのでは…?
郷土愛の個人差の正体は他と比べたかどうかが大きく影響しているのではないか?
そして私が出した一つの仮説がこれです。
自分の中に地域に対する記憶があって、それを他と比べる中で愛着をもつとそれが郷土愛になるのでは????
そしてこの春から久米南町にてこの仮説を検証するべく、新たにプロジェクトを開始しました。
その名も「久米南高校」です。
検証、といっても結果が出るのは何年後になるでしょうか?
ちょっとわくわくしてきたところで今日の投稿を終わります。
久米南高校に関する投稿は随時していきますね!
皆さんのふるさとはどんなところですか?
ぜひコメントで教えてくださいね!
最後までお読みいただきありがとうございました。黒川彩芽でした!